明日の神話
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渋谷駅、井の頭線改札からJR方面へ渡るこの広い通路にその壁画はある。1967年のメキシコ人実業家の依頼がそのはじまりである。その後、時を経ていまはこの日本の渋谷の街に飾られている。「明日の神話」岡本太郎の作品である。
僕は渋谷という街が好きではない。大嫌いだ。しかし、今ほとんど毎日のようにこの街を通る。仕事場に向かうために仕方なく通るのだ。そんな僕にこの街を通る唯一の理由を与えてくれるのがこの「明日の神話」だ。

明日の神話

原子爆弾の炸裂と恐怖、人が繰り返す過ちとその犠牲者。そして明日生まれくる無垢の魂がそこに描かれている。ただ僕はこの絵には批判や教訓や感情といったものは一切ないと思う。事実だけを妥協も誇張もなくキッチリと描いている。そこにこの絵の本当の凄さがあると思う。人を一度に何万人も燃やす道具を作る。その科学力と工業力は人類の進化の象徴でもあるかもしれない。それを同じ人間の頭上に使う心も人類の進化を表現するものにほかならない。理不尽にも生きながら燃やされる人々、解き放たれる得体のしれない毒、そして、それを驚きながら見つめる明日の魂たち。そして中心に炸裂する爆弾はおそらく神々しいまでに美しい火球なのだ。それを見るとき、この恐ろしいまでの何かは恐怖と同時に吸い込まれるほどの美しさがあるのだと思う。僕はいつも思い出す。TVアニメ作品「エウレカセブン」のアクセルサーストンの言葉「これはワシらを破滅させる死を導く光だ。しかし、なんと美しい。」
この絵には安っぽい主張など微塵も隠されていない。被害者を哀れんだり加害者を糾弾したりするような絵ではない。事実があるのみだ。事実のみを純粋に描いているのだ。
同じく戦争の悲劇を描いた絵にピカソの「ゲルニカ」がある。1937年に描かれたその作品は、スペイン内戦にナチスドイツが介入し行ったゲルニカの無差別爆撃を描いたものだ。その絵は戦争の恐怖と悲しみ、ありとあらゆる感情が溢れ出すように描かれている。その意味でこの「明日の神話」とは意味合いとしては実は間逆なのではないかと思っている。
人が過ちを犯しながら生きてきた、そしてこれからも生きてゆく。そのことをただ冷酷に描いているのだ。

この「明日の神話」は一日30万人が行き交う渋谷の通路に展示されている。この壁画のすぐ裏側は地下鉄銀座線が通っている。振動と雑踏で決して作品展示に向いている場所とは思われないが、これにはあるエピソードがある。岡本太郎は生前、川崎市に自分の作品をすべて寄贈してしまう。川崎市は川崎市岡本太郎美術館を作りそこにその作品を展示することになったのだが、展示方法として心無い人間によって作品を傷つけられる事件を取り上げて、作品はガラスケースに収めて展示すべきと提案した。それを聞いた岡本太郎は怒り出し、こう言ったそうだ。

「切られてなにが悪い。切られたらオレがつないでやる。それでいいだろう。子供が彫刻に乗りたいといったら乗せてやれ。それでもげたらオレがまたつけてやる。だから乗らせてやれ!」

「明日の神話」がこのような場所に設置されたのには、岡本太郎のその心が慮られたからだ。多くの人がその作品をいつでも見ることができる。そこにこそあるべきだ。という彼の信念がそこに生かされている。だからこそ僕も朝にこの前を通り、夜にこの前を通る。何百回も通りながら一度も見上げずに通ったことなどない。そして心に響く何かを感じながら生きている。

人は過ちを犯しながら生き続ける。その過ちで人類が滅びてしまったとしても、だれも振り返ることもないし裁かれることもない。千年後、二千年後、この作品も朽ちてだれもわからなくなっているかもしれないし、人類そのものが滅びているかもしれない。
しかし、願わくば、人類の歴史における核戦争は広島で始まり長崎で終わった、と語られていてほしい。理不尽に燃やされた人々が心安らかに眠ることのできる世界が実現されていてほしいと心から願う。

 
| 駅前社長日記 | 08:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |